解離性同一性障害と付き合いながらの生き方 私と私の知らない私 育った環境 日々思うこと

私と別の私と私たち

10年以上、解離性同一障害と付き合いながら生活をしています。病気だとしても建設的な人生を目指して日々奮闘

親 そして 私たち 2編

今日は姉と実家で過ごした

平和に時が流れた

 

さて、前回に続き、私と親(主に母)との関わりを記したい

 

まず、母は20代半ばで両親に旅立たれ父と結婚した

 

就職という程、社会に出た事はなく

所謂、箱入り娘だ

 

お見合いを何件もした結果、

恋愛で父と結婚したのだ

 

母としては、家事をよくこなした

 

弁当も娘2人分、毎日作り続けてくれた

 

弁当は工夫が多く、季節感やイベントも欠かさない物だった

 

今の私(ユカ)には到底真似できない

 

部屋もそれなりに片付いていて、洗濯物も指定場所に収納してあった

 

朝ご飯、夕飯も一品なんて事はなく、テーブルいっぱいにお菜が並ぶのであった

 

母は、子どもの変化にも敏感だった

 

風邪もアトピーも喘息も…ほとんど一人で看病してくれた

 

娘の精神面にも神経を注いでいた

 

父が変わっていただけに、母なりの気遣いだったと思う

 

ただ父を恐れるあまりか、子どもを守る事には欠けていた

 

父の暴走を全力で止めた記憶はない

 

傷ついた心には寄り添うが

傷つかないようには出来ない不器用さがあった

 

そして、今思えば母自身が体験したことのない家庭から現実逃避していたのではないかと思う

 

末っ子の私が実家を出る頃、母は実家に戻った

 

離婚はしていないが、車で50分程度離れた実家に戻って、本来の自分を取り戻したように思う

 

50歳を過ぎてから免許を取得した事にも驚く

 

母は実家に戻り、かなり活発になった

 

自分の意見も言うようになった

 

毎日毎日、子どもに父への不満を垂れ流した母は、ある程度、父と距離をとって変化した

 

今では「何より自分が一番!」と言わんばかりに趣味の予定がぎっしりの手帳を持ち歩いている

 

ただ、そんな母にも腑に落ちない点があった

 

それは、「人の痛みを笑い話に勝手に変える」という事

 

私たちには大きな火傷がある

 

幼稚園に行く前の年の瀬

母がヤカンを持って転んだのだ

 

熱湯はテレビを見ていた娘達に向かってしまった

 

足など、見える場所はシャワーで必死に冷やしてくれたが、なぜか私は「腕が痛い」と言わなかったらしい

 

医者から「これで大丈夫かな?」と聞かれて初めて「腕が痛い」と伝えた

 

セーターを脱いだ私の腕と脇腹には皮はなかった

 

長時間、冷やす事なく放っておいたので、腕は蒸焼き状態だった

 

母はその傷を気にして、色々な温泉やサポーターをするなど、なんとか必死だった

 

私もある程度のイジメを乗り越えた

 

いつも長袖を着ていた私は、高校3年で初めてできた彼氏に火傷を見せた

 

彼は「別に気にならない」の普通の顔で答えた

 

拍子抜けしてしまった

何年も隠し続けた傷は、何でもない火傷の跡だったのだ

 

お陰で気が晴れて、半袖も着るようになった

 

ある日、他人に「あら、火傷?可愛そうに」と言われた

私たちが答える前に母は笑いながら「アトピーで肌汚いし、気にならないわよ」と答えた

 

母にあんなに強い憎悪を持ったのは初めてだと思う

 

「肌が汚い」とは、私たちが幼稚園からずっと言われてきた言葉

 

それを母の口から聞くとは

それも母は笑っていた

 

その頃だったのか、ケン(男性、18歳程度、怒り担当)が明らかに誕生した

 

父への憎悪

母への憎悪 それだけを元に生まれたキャラクターだったようだ

 

ケンと母とは、その数年後、ケンが「熱湯をかけるから座れ」とブチ切れたのに対し母が「床に座り、気がすむならどうぞ」と言った瞬間にケンの火傷に対する怒りは消えた

 

それ以降、ケンが火傷を持ち出して母を責める姿は見ていない

 

私たちは、その場その場でキャラクターが増えるのだろうか

 

必ず、どのキャラクターも役割があるのか?

 

私(ユカ)の役割とはなんなのか…

 

まだ自分でスイッチングのコントロールもできない

 

不安が募り、それを忘れる日々はまだ続くのだ