解離性同一性障害と付き合いながらの生き方 私と私の知らない私 育った環境 日々思うこと

私と別の私と私たち

10年以上、解離性同一障害と付き合いながら生活をしています。病気だとしても建設的な人生を目指して日々奮闘

久しぶり。

仕事を休み始めて1週間。

日々の暮らしに特に不満はない。こう言い聞かせてきた。

人格の境界線が曖昧になる事は、よくある。

これは完治に近づいているわけではない。元々、同じ人間のイマジネーションの世界で、別人格が生きているのだから、【境界線の曖昧】は当然なのだ。

鏡を見て、分かるわけでもない。

見た目は初めから同じ。

記憶もある程度、共有している。

いや。していない人格は自覚していないから「居ない」と判断するだけだ。


上司から「これは、サチさんから聞いてますか?」と小声で確認される。

「…はい」たぶんね。と思って返事をする。


ここで、忘れないで頂きたいのは「元々、健全な人間でも健忘がある」と言う事実。


これが解離の人間には「人格が違うから?」とすぐに病に結びつけられる切なさ。

なんて事ない事だろうが、仕事だろうが、普通に「あっ、忘れてた」って事はある。


何もかもが解離原因ではない。


だが、解離だからこそ記憶がない時もあるから厄介だ。


自分では、

・ただの忘れ

・人格間の共有なし  は感じ取れる。

前後の記憶も何もない。

つまり「あっ。」と思うことがないのが解離だ。「覚えていない」とは感じず「知らない」と感じる。

そんな話しをした事を思い出せない。

これは何とも説明し難いが、本人には分かる感覚。


◆忘れてはいけないのか?◆

解離の人達は、自己防衛の為に不要な記憶は共有しない。それを知れば傷付くと思えば、『嫌な記憶担当者は記憶を共有しない』当然だ。

それが各人の役割なのだから。

ケンには耐えられる記憶でも、ユカには辛い物となる事もある。そうなれば、ケンはユカに記憶を渡さない。ユカを守るのだ。

他の人格も同じ事をする。


また、コミュニケートが取れていない人格の記憶はもらえない。

存在すら知らないのだから「記憶をもらっていない」と感じる事すら無い。

これが「ん?わたし今何してた?ここはどこだ?」に繋がり「他に誰かいるかも…」と思う事はある。

が!数分後には、それすら忘れる。

自分が何をしていなのか分からない恐怖はかなり強い。

だから、忘れるのだろう。


解離の症状として、忘れる。

これは受け入れるしか無い。言った言わないの論争は、めっきり苦手。根底に「覚えていないかも」と言う思いがあるから。


でもさ、誰でも【忘れ】はあるでしょ?

そんなに忘れちゃいけないかい?