解離性同一性障害と付き合いながらの生き方 私と私の知らない私 育った環境 日々思うこと

私と別の私と私たち

10年以上、解離性同一障害と付き合いながら生活をしています。病気だとしても建設的な人生を目指して日々奮闘

親 そして 私たち

現在、解離性同一障害について投薬とカウンセリングで治療中

 

私(ユカ)が知り得る限りの両親(特に父)との関係に触れたい

 

私は実年齢より16歳ほど年下である

 

前記したように、私には記憶があまりない

 

そこで、今回はキヨマル(成人男性)、ユキ(女児、年少)からの記憶をもらいつつ記したい

 

私が高校を卒業するまで、実家に住んでいた

 

幼い頃から、我が家は父が在宅している間は、誰にも緊張があった

 

お嬢様上がりの母と、農家から進学し会社員になった父とは価値観が合わない事が多かった

 

父の地雷はどこにあるのか誰にもわからず、突然、声を荒げ物に八つ当たりする様は、幼心にも大きな傷を与えた

 

また、母は父の地雷を踏む事に長けていた

 

「あっ、それは…」と思う事も、サラッと口にして、父の爆発を誘発するのだ

 

ちなみに、その癖は今も健在である

 

若き父は、『厳格』と言うより『駄々っ子』だったと思う

 

思い通りにならない事が嫌なのだ

 

それが、家庭であろうと、会社であろうと

 

帰宅時、既に不機嫌…そんな事はザラである

不機嫌な理由など、家にいた家族に分かるはずもない

 

21時過ぎ、ドアの鍵が「ガチャ」と鳴ると、家族は団欒を辞め、各自の居場所へ戻った

 

幼い頃は、子ども部屋として姉と同室であったが、父の帰宅後、ケラケラ笑う事は許されない

 

いや。許さない日もあるから、騒がないのが安全なのである

 

父の機嫌が悪い夕食は、まるでお通夜だ

 

誰もが茶碗と、お菜だけを見て黙々と食す

談笑などとんでもない

 

大皿料理にタバコの吸い殻をばら撒く父を何度見たことか

 

それが父の怒りの表し方なのだろう

 

ここまで書くと「DV?」と思われるかもしれない

しかし、子ども2人はさほど暴力に耐えた記憶はない

 

私に関してはほとんどない

 

むしろ、小学生の時に塾をサボったかなんだったか…尻を一発蹴られた事がある

たぶん、思い出せる暴力はその程度であり、蹴られた事もなんとも思っていない

 

父の怒りの矛先は、だいたい母だった

 

また、レストランなどでは、アルバイトであろうホール係

学校では、若手の先生に食ってかかり、よく泣かせていた

 

それは非常に恥ずかしい思い出だ

 

周りからジロジロ見られるあの感覚は、耐え難い

 

父の怒りは、立場の弱い人間に向くのだと今にして思う

 

私は末っ子だからか、父を「怖い」とは感じていたものの、身体のどこかにアザがあったこたなど一度もない

 

大人になって、振り返れば愛されていたのかもしれない

 

しかし、幼き私にそれは理解出来なかった

 

私たち(特にユキ)はピエロが役目だったようだ

自分が戯けてみせる事で家族を笑わせる

それがユキの最大の役目だ

 

それは現在も変わっていない様に思う

 

ちなみに、ユキは笑顔の父を「お父さん」と呼び、怒りに満ちると「おじさん」と呼ぶ

 

ユキには、怒る父を受け入れる事が出来ないのか、必要がないのかは不明

 

だから、今こうしてブログを記しても、ユキから怒った父の記憶は何も伝わってこない

ユキにその記憶がないからだ

 

かなり簡易に記したが、これが私たちの父である

現在、父は病を患い、人が変わっている

 

それでも、私たちの記憶や解離性がなくなるわけではない

 

次回は母について記したいと思う

 

♯解離性

♯家族

♯父